1966年のヘップ

 浅草で打ち合わせのために待ち合わせをしていた。目の前にひどく古びた靴屋さんがあった。いや、靴の問屋さんだろうか。古びているけれども営業中で、店先では靴の箱の山を積み降ろししている。
 看板を見ると、ほとんど消えかかった字で「ヘップ」と書いてある。私はすぐに「あ、つい数日前にヘップという字を見た。いわれも知っている」と思った。
 『富士日記』(中)(武田百合子 中央公論社)に「スリッパにかかとがついている形のサンダルで、もとはオードリイ・ヘップバーンが何かの映画にその形のサンダルを履いて出てきてから、ヘップサンダルといって流行した」と記述があったのを読んだばかりであった。
 この記述そのものは、1966年のものだから、あの看板がくっきりと見えていたのは、その頃だったのかも知れない。
 私は2歳で、隅田川を渡ってずっと向こうの、小松川にいた祖父母も若くて元気だっただろう。
 私は、ヘップという履物の名前もまったく知らなかったが、こうして、ほとんど誰も見ることも意識することもない、看板のかすかな文字を見て、知識と経験と思い出がつながり、しかもそれがまあ、それほど実利的ではないことを思って、うれしくなった。