私の戦争1964 第4回 〜ソ連軍侵攻の日〜

 広島に原爆を落とされた日、長崎に原爆を落とされた日、終戦記念日。8月は先の大戦にまつわる日が続く。戦争のことを考え続け、伝えることが私の執筆のテーマの一つであるため、自分自身とこれらの日の関わりを、今日も考える。
 今日、8月9日は、1945年にアメリカ政府によって長崎に原爆を落とされた日であると当時に、日ソ中立条約を一方的に破棄したソ連政府によってソビエト赤軍が一斉に侵攻を開始した日でもある。
 1945年のこの日、私の母は、福島の疎開先で間もなく戦争が終わることをおそらく知らずに過ごしていただろう。私の父は、ハルピンからソ満国境(ソ連邦といわゆる旧満州国の国境)へ向かう途中の軍用列車にいたと思われる。
 「思われる」というのはどうもはっきりしないが、1927(昭和2)年生まれの父は存命で、思考も記憶も比較的しっかりしているが、あまり話したがらないため私がこれまでに聞いたことの断片から推測しているからである。


 父は郷里の信州で農業学校を卒業し、旧満州国(日本のかいらい=あやつり政府であった)の雇員(こいん)となり、東京農業大学で1年間だけ農業土木の講義を受けたのち、植民地朝鮮の釜山港へ上陸し、ハルピンへ渡った。この頃は日本海にも米軍の潜水艦が跳梁しており、すぐ後には関釜連絡船も沈められる危険が増大した。
 しばらくハルピンで農業土木の指導員をやっていたが、8月になってソ連侵攻が予測されて、当時満州にいた青年壮年男子がすべて陸軍に招集されたことに漏れず、陸軍に入ったものと思われる。あるいはソ連侵攻が確認されてから、入隊したのかも知れない。あるいはまた、招集地に向かう途中だった可能性もある。いずれにしても、ソ連軍に捕まりそうになりながら、逃れて、帰国することができた。
 ソ連軍は、満州最北端の国境を一斉に越えて、戦車、装甲車両、重砲、航空機それに膨大な兵員による大兵力で侵入してきた。当時、満州を守備していた日本の関東軍が総崩れとなり、軍とその家族などが南満州に逃れたのに対して、一般居留民の多くはそれぞれの地に残され、当初のソ連兵の暴虐に遭い、殺され、傷つけられ、中には後の残留日本人孤児となる子どももいた。


 父はソ連軍からの逃避行の中で相当に過酷な体験をしたらしく、帰国して1年ほどはほとんど廃人のようであった、と聞いたことがある。私は子どもの頃に、その体験の影響のよると思われる父の奇異な言動を見ている。また、その体験の一部を、私が18歳になった時に父は初めて教えてくれた。
 その内容や、父のそれ以前と戦後の来歴、当時の社会状況との関わり、そしてそれらが私に及ぼした影響などは、一つのまとまった文章になるし、また、しなければいけないのだが、現在の私にはまだそれができない。
 ただ一つだけ言えることは、“戦争を体験していない私が体験した戦争”を語らなければならない、ということだ。これは、どの世代にも共通のことであると思う。“戦争を体験していない私が体験した戦争”を、それぞれのやり方で考えたり語ったりすることが、次の戦争を防ぐ大きな力になるものだと思う。