「ミートでいいや」

 食い意地が張っているせいか、一回ごとこ食事が大切に思われてしかたがない。
 ぜいたくな食事か、端から見て貧しげな食事かは問わず、おろそかにはしたくない。

 アサリの旬を先取りして、パスタを作っていて思い出した。
 もう10年以上前のことだが、当時住んでいた街にタンシチューを売りにしていた小さな洋食屋があった。
 品書きには、パスタも何種類かあり、それは結構なことで、タンシチューやビーフシチューを食うのもいいし、パスタを手軽に食うのもいいだろう、と思った。

 ある時、その洋食屋で食っていると、年配の男性が入って来て、落ち着かない様子で品書きをちらっと見ると、すぐ店員に「ミートでいいや」と言った。表題の「ミート」とは、スパゲティ・ミートソースのミートのことである。
 私は、食事を注文するのに「○○でいいや」という言い方がとても嫌いである。憎悪していると言っても良い。だから、そういう言い方をした人を憎まないようにするのが大変である。
 兵隊に取られて駐屯所の不寝番か前哨警備かを選ばされているのではないのだから、一日のうちで限られた回数の食事なのだから、自分の意志で選べる愉しみなのだから、「ミートでいいや」はないだろう、と思う。

 じっくりと煮込んだタンを食わせる店なのにパスタを頼むなんて、とは言わない。先に述べたように、品書きにも載っているのだから。
 ひょっとすると「いつもは牛肉料理を愉しんでいるから今日は軽く」とか「初めて来たけどまずパスタを頼めば牛肉料理がうまいかどうか分かる」ということかも知れない。

 けれども、私にはどうしても、本当にスパゲティ・ミートソースが食べたいと思って注文したようには思えなかった。「何でもいいや」「ミートでいいや」というふうに思われた。
 それは私が、食文化に興味もない、腹だけ満たされれば良い、外食の愉しみも知らない、という人に偏見を抱いているから、そう思えただけかも知れない。

 どの世代、どの社会環境の中にも、食べることを文化として楽しまない、つまり生理的欲求以上に愉しまない人たちはいる。
 もちろん、戦争や災害時、あるいは社会が極度に混乱した時には、食べることそのものも困難になり、餓死する人さえいるから、食事は文化ではなく、睡眠や排泄と同じレベルの行為となる。
 だからこそ、愉しめる食事は愉しむべきではないか、それが豊かさなのではないか、たとえ貧しい食べ物でも愉しんで食べることが文化なのではないか、と思うのである。
 
 経済成長を支えて仕事に追われる時代を経て、ようやくゆっくり食事ができるようになって、しかし、いざ一人で外で食べるとなると、その愉しみを捉えるべきアンテナの感度が極めて弱かった、あるいはアンテナそのものがなかった、ということもあるかも知れない。

 今、コンビニのゴミ箱の横で、立ったままスパゲティ・ミートソースをすすっている若い人がいる。ファミレスで、せっかく親子で食事に来ているのに、子どものことは一顧だにせずにずっと携帯をいじっている親がいる。
 これらの人たちは突然変異ではない。「ミートでいいや」というあり方から生まれてきたのではないか、とそんなことも考えるのである。