原発と戦争と米軍基地

 3月11日より前には、原発に反対する声はほとんど聞こえてこなかった。
 それよりもずいぶん前には、まだそれでも反対する声をマスコミも取り上げていたが、いつの頃からか、ほとんどそういう声はかき消されて、地球温暖化防止のためとして、原発推進の声の方がたくさん聞かれた。
 それが、3月11日を経験して、マスコミにも文化人にも政治家にも、原発反対を積極的に唱える人が多くなった。

 昭和の15年戦争が終わった時、それまで軍国主義を異常なまでに賞賛していたマスコミや文化人や政治家が、一夜にして変節し、それを見た多くの国民があきれ果て、何も信じられなくなったという話しは、いろいろなところに記されている。

 戦争中は、日本は絶対に勝つ、だから生命も財産も国家のために投げ打つように叫ばれた。
 しかし、日本は負けて、失われた生命は戻らなかった。 

 マスコミや文化人や政治家は戦争推進を叫び続けたが、一方で、そうした政策や風潮に反対すると、逮捕されたり拷問されたり殺されたりもした。近所からも敵視され、密告されたりもした。

 原発には、反対したとしても露骨な弾圧は受けないだろうし、反対の意見を述べたからといって刑務所にぶち込まれたり、拷問で殺されたりは、しない。

 そして、原発は絶対に安全だと、絶対に必要だと、原発当局はもちろん、マスコミや文化人や政治家がの一部が叫んだ。
 しかし、事故を起こし、原発は安全ではなかった。

 みんなそれぞれに大小の差はあっても、原発に賛成したり、反対しなかったり、止められなかったり、無関心だったりしたことによって、今回の事故には責任がある。
 しかし大切なのは、何らかの目的で原発を推進してきた、当人たちの責任をはっきりさせなければいけない。
 戦後の「一億総懺悔」のように、戦争を進めたのはいったい誰の責任だったのか曖昧にするようではいけない。

 原因を解明し、責任をはっきりさせ、きちんと補償して、その上でやっぱり原発は必要だった、事故はやむを得なかった、これからも必要だ、という人がいるのなら、そう主張すればいい。
 戦争についても、あの時代では仕方なかった、そう言う人もたくさんいる。
 すでに原発の再稼働は必要だという主張をしている人もいる。こういう人はむしろ首尾一貫している。

 その上でまた、本当に原発を稼働させるのか、廃止するのか、それは私たち一人ひとりが決定することだ。もう誰一人として、その決定責任から逃れることはできない。

 原発があったことでの経済効果から、やはり必要だと主張する原発の地元の政治家や経済人がいる。とても正直であり、多くの人が事実を隠したりごまかす中で、実に潔い。

 しかし、原発は、本当は電気を作るためのものであって、その代償としてお金や「箱もの」を提供してもらうためのものではない。
 
 沖縄の米軍基地は、日本の安全のため、東アジアの安定のためという理由で沖縄に置かれている。本当に必要だというなら、沖縄の人たちが絶対に納得するあり方を政府は提供しなければいけないし、すべての国民がそれを負担しなければならない。

 基地がないと経済が成り立たない、ということを理由にしてはいけない。経済が成り立たないから、基地の危険や騒音や米兵の犯罪をがまんするなど、本末転倒であるし、そこにつけ込むことは絶対に許されない。
 経済を成り立たせるのは、まったく別の問題である。

 原発も米軍基地も本当にこれから必要なのか。
 人間の、日本人の、真の豊かさと、何を引き換えにするのか。

 戦争でさえ必要だと言っている人はいる。言わなくても思っている人はいる。だから戦争が起こるのである。戦争は自然災害でも何でもない。

 ここでもう一度、みんなで責任を持って、しっかり考えて行きたいと思う。
 今がその最後のチャンスなのではないだろうか。