シリーズ「電車で業3」鼻水をすすり続ける乙女

 電車の中で、乗車してから降車するまで、ずっと鼻水をすすり続けているのは、乙女ばかりではなく、若人ばかりでもないのだが、先日、隣に座って、携帯電話をずっといじりながらずっと鼻水をすすり続けていたのが、乙女だったので、このような表題にした。
 とっとと鼻をかめばいいのである。だから、2、3回鼻水をすすった後に鼻をかむ人のことは、それがどんなに大きな音で鼻をかんでも、まったく気にならないどころか、賞賛さえしたくなる。
 それほどまでに、電車の中のすぐ近くで、間欠的に、鼻水をすすり上げる音を聞かされるのは、私には、誇張ではなくて、地獄である。
 放屁の音の方がまだ気にならないと思う。びっくりはするけれど。遠慮のないげっぷの音は極めて不快だ。
 すすり上げる音そのものが不愉快だということもあるが、私自身の勝手な捉え方によるものが大きい。
 なぜなら、ほとんどの場合、意識をすれば、つまり公共の場所にいることを意識をすれば、すすりあげもげっぷも自分で制御できるだろうと(私が自分勝手に)思うからだ。放屁は比較的制御しにくいだろうと(自分勝手に)思っている。
 周囲の人が不快になるだろうと考えない人が(心が)嫌なのだが、周囲に自分がどう見られているかに意識が至らないのが、もっと嫌なのだ。
 しかしもっと考えると、再々書いているように、自分は(私は)、外に出ればいろいろなことをがまんしているのに、がまんせずにやりたい放題(といっても鼻水のすすり上げやげっぷのことだが)なのが、腹立たしいのである。
 となると、ここでいう業もまた、我が心の業ということになってしまった。