地下鉄車中驚愕の親子の光景

 先日、昼間の空いている地下鉄に乗っていて、若いお父さんと小学1年生くらいの男の子が繰り広げた驚愕の光景に出会った。
 
 私の隣でその子が電子ゲームをやっていて、その向こう側にいるお父さんがゲームを応援している。
 
 「ほら、そこのはしごをのぼって」「ほら、うたなきゃ」とお父さんが言っていて、私がそっと画面を見てみると、非常に精巧なコンピューターグラフィックで描かれた人物らしきキャラクター(スーツを着た人間の男に見えた)が拳銃を持って、別のやはり凶器らしきものを持った人物(こちらも人間だろう)と取っ組み合いをしている。「うたなきゃ」は拳銃で「撃たなきゃ」だったのである。
 
 ゲームの中でスポーツとしての格闘技をやっていて、「ほら、ここで(拳で)打て」と指示しているのでは、決してない。「拳銃を捨てて、相手を説得しよう」でも「暴力はやめて話し合おう」でも「とにかく逃げよう」でもない。もちろん、そんなことをしたらゲームにはならないだろが。
 
 もしゲームの中のキャラクターがどちらも、あるいは撃たれる方が人間という設定であったら、「ゲームの中で、お父さんは息子に“殺人”を教唆した」ことならないのか。
 
 ゲームそのものにしても、ことによったら、不特定多数への“殺人教唆”なのではないか、とさえ私には思える。
 
 「撃たなきゃ」「でも、弾がなくなっちゃった」と会話があり、どうやらゲームオーバーになった。「弾を大事にしとかないから、凶暴な奴が来たらやられちゃったんだよ」。
 
 ゲームをカバンにしまうと、お父さんが「ほら、赤坂見附だよ、この前、間違って降りちゃったね」と笑いながら言った。
 
 お父さんの口調は、ゲーム中からも穏やかでやさしそうではあった。昨今「おら、おめえ、何やってんだよ」という言葉を子どもに叩き付けている親や、逆に子どもを持て余して、幼児にさえおどおどしているお父さんを何人も見かけているので、このお父さんがまったくやさしく、しかもしっかり子どもと向き合うことができている父親であることが分かる。
 
 息子は楽しそうに笑ってあいづちを打った。そして、いろいろな思い出を話していた。
 
 息子が、今度は、プラスチックでできたおもちゃの花をお父さんに手渡した。お父さんは、それを鼻に近付けると、おどけて「ああ、いいにおい」と言った。息子はもっと楽しそうに笑って、急にひざに取り付いて甘えた。
 
 本当に、微笑ましい。心休まる光景だ。
 
 しかし、これはどういうことだろう。この矛盾はどうしたことだろう。同じ親子の間に、なぜ“殺人ゲーム(ゲームの中のキャラクターが人間であったなら)”と“やさしい心の触れ合い”が併存しているのか。
 
 今の私には、どうにもまったく説明がつかない。「バーチャルの世界だったら、何をやっても許される」「バーチャルの世界と現実世界は完全に峻別され、それはどんな子どもも完全に認識しており、子どもの将来にも決して影響を及ぼすことはない」ということなのだろうか。
 
 それとも、あのゲームの中のキャラクターは、人間そっくりのエイリアンか、人造人間か、元気でこぎれいなゾンビで「殺しても殺人にはならない」ということだったのだろうか。
 
 いや、たぶんそうなのだろう。